日本社会の原点を学べる「世間と空気」

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演出家・作家である鴻上尚史さん「空気」と「世間」 (講談社現代新書)を読みました。

日本社会の本質とも言える部分を「世間」「空気」という日本特有の文化から捉えた、とても勉強になる一冊です。

日本社会は何でこうなんだろうとか、日本社会の成り立ちについて学びたい人にはどんな分野でも参考になる一冊です。

 

「空気読め」と誰もが一度は言ったり、言われたことがあるのではないでしょうか?

この「空気」というよくわからないけど、もの凄くその場だったり関係だったり影響を与えている「空気」というものを研究し、空気をもとに動いている日本社会を研究したとても面白い一冊です。

・電車で、たまにおばさんたちの団体さんに遭遇します。おばさんのうち、すごく元気な人が、まず社内に飛び込み座席を人数分、確保します。そして、後からやってくる人に「ほら、ここ!取ったわよ!」と叫びます。おばさんは、決して、マナーが悪いのではないのです。それどころか、仲間想いのとても親切な人のはずです。困っている仲間がいれば、きっと親身になって相談に応じたりしているのでしょう。おばさんは、自分に関係ある世界と関係のない世界を、きっぱりと分けているだけです。それも、たぶん、無意識に。

・おばさんは、自分に関係のある世界では、親切でおせっかいな人のはずです。そして、自分とは関係のない世界に対しては、存在していないかのように関心がないのです。この、自分に関係のある世界のことを「世間」と呼ぶのだと思います。そして、自分に関係のない世界のことを「社会」と呼ぶのです。

・阿部謹也さんは、「世間」とは何かの中で、「世間」と「社会」についてこう書かれています。

明治十年頃にsocietyの訳語として社会という言葉が作られた。そして同十七年頃にindividualの訳語として個人という言葉が定着した。それ以前には我が国には社会という言葉も世間という言葉もなかったのである。ということは、我が国にはそれ以前は、現在のような意味の社会という概念も個人という概念もなかったことを意味している。

欧米の社会という言葉は本来個人が作る社会を意味しており、個人が前提であった。しかし我が国では個人という概念は訳語としてできたものの、その内容は欧米の個人とは似ても似つかないものであった。欧米の意味での個人が生まれていないのに社会という言葉が通用するようになってから、少なくとも文章の上ではあたかも欧米流の社会があるかのような幻想が生まれたのである。(中略)しかし学者や新聞人を別にすれば、一般の人々はそれほど鈍感ではなかった。人々は社会という言葉はあまり使わず、日常会話の世界では相変わらず世間という言葉を使い続けたのである。

・そして阿部さんは、建前としての「社会」と本音としての「世間」が日本に生まれたとします。

・日本の「個人」は、「世間」の中に生きる個人であって、西洋的な「個人」は日本には存在しないのである。

・「社会」とは、文字と数式による欧米式の思考法です。「近代化社会システム」と呼べるものです。僕たちは、「建前」と言ったりします。

「世間」は、言動や動作、振る舞い、宴会、あるいは義理人情がちゅうしんとなっている人間関係の世界です。「歴史的・伝統的システム」と呼べるものです。「本音」ですね。

・「それは理屈だ」というのは、「人間というものは、そんなに簡単に理屈で割り切れるものではない。論理的には、お前の言っていることは正しい。けれど、それでは世間は納得しないだろう。もっと人間の事情や感情を考えろ」ということです。これは西洋的な「個人」の概念からは出てこない言葉でしょう

阿部さんは、「明治以降日本に入ってきた自由、平等、博愛、ヒューマニズムや愛などという言葉は伝統的な世界では用いる事ができませんでした」(近代化と世間 (朝日新書))と書きます。私たち日本人が実際に生きている「世間」ではそういう言葉は、リアリティーを持っていない、ということです。

「世間」と「社会」の違いは、「世間」が日本人にとっては変えられないものとされ、所与とされている点である。社会は変革が可能であり、変革しうるものとされているが、「世間を変えるという発想はない。」(阿部さん)

・「世間」は変えられないものだと思っているから、「しょうがない」という言葉がよく出てくるということです。

若者が感じるのは「世間」ではなく「空気」

世間の5つのルール

1.贈与・互酬の関係:「お互い様、もちつもたれる、もらったら必ず返す」という関係。一番分かりやすいのは、お中元やお歳暮、内祝いと呼ばれる祝儀に対するお返し。

2.長幼の序:年上か年下か、ということがものすごく大切。英語では「先輩」「後輩」のニュアンスが絶対に伝えることができない。なぜ年上というだけで尊敬しなくてはならない?と驚かれる。

3.共通の時間意識:「先日はありがとうございました」は共通の過去を生きた確認であり、「今後ともよろしくお願いします」は、おなじみ来を生きるという宣言。同じ時間を生きているとは思えない相手は、同じ「世間」のメンバーとは認められない。

4.差別的で排他的:日本で欧米にないいじめが「何もしないいじめ」。クラス全体が特定の一人を徹底的に無視する。何もしないことで「世間」を成立させている。

5.神秘性:論理的な根拠はない「しきたり」「迷信」「伝統」など。

社会 世間
契約関係 贈与・互酬の関係
個人の平等 長幼の序
個々の時間意識を持つ 共有の時間意識を持つ
個人の集合体 個人は不在
変革が可能 変革は不可能
個人主義的 集団主義的
合理的な関係 非合理的・呪術的な関係
聖/俗の分離 聖/俗の融合
実質性の重視 儀式性の重視
平等性 排他性(ウチ/ソトの区別)
非権力性 権力性

「世間」と「社会」の比較(「世間」の現象学 (青弓社ライブラリー)より)

・「十世紀から十三世紀にかけて書かれた「アイスランド・サガ」を見ると、人々が我が国の「世間」と同じような絆のもとで暮らしていたことが分かる。サガには約7000名の個人名が出てくるにもかかわらず、それらの人にはほとんど内面の描写が無い。彼らは集団で暮らし、集団の掟のもとにあった(阿部謹也学問と「世間」 (岩波新書))」(中略)キリスト教というシステムがなければ、西洋もまた「世間」が続いていただろうという大胆な研究。

・カトリック教会は、「世間」の存在を許していると、キリスト教だけを信じるようにはならないと徹底的に「世間」を攻撃した。ルカ伝14章には「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも読んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という記述がある。ユダヤ社会の贈与慣行を打破するため。

「世間」と「空気」

・「世間」が流動化したものが「空気」

・世間の定義:『「世間」という言葉は自分と利害関係のある人々と将来利害関係をもつであろう人々の全体の総称なのである。「(阿部謹也)「世間」への旅 西洋中世から日本社会へ」』

・「”空気”が存在しない国はないのであって、問題は、その”空気”の支配を許すか許さないか、許さないのであればそれにどう対処するか、にあるだけである。」(「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))より)

・「空気」とは「『世間』の五つのルールのうち、何かが欠けているか、揺らいでいると感じられるもの」ということになります。僕はそれを”流動化”と呼びました。

「空気」は決して弱いものではありません。その瞬間の力は圧倒的です。構成の面から見て不完全・不安定と呼んでも、その持っている力は、「世間」と変わらない場合があります。ですから「空気」が欠けているものが揃って「世間」になることもあれば、「空気」のままで消えたり、変わっていく場合ももちろんあります。

「空気」に対抗する方法

・山本さんも「我々はここでまず、決定的相対化の世界、全てを対立概念で把握する世界の基本的行き方を調べて、”空気支配”から脱却するべきではないか。ではどうすればよいか、それにはまず最初に空気を対立概念で把握する”空気の相対化”が要請させるはずである」と書きます。

「すべてを対立概念で把握する世界の基本的行き方を調べて」と山本さんは書きます。それは、一神教の世界、、この場合は、キリスト教やユダヤ教の世界のことです。一神教では、神の言葉だけが絶対で、それ以外は相対化されます。(中略)けれど日本人の場合は、あらゆる言葉が絶対化されます。「世間」が神ですから、そこで話される言葉が、絶対的な力を持って一人一人に迫ります。

・(前略)日本人は、そんな多数決原理さえ、人々の真意を表すようには使っていない、と山本七平さんは書きます。会議であることが決定して、散会した後、各人は飲み屋などに行き、そして、「職場の空気」がなくなって「飲み屋の空気」になったとたん「あの場の空気では、ああ言わざるを得なかったのだが、あの決定はちょっとネー…」といったことが「飲み屋の空気」で言われることになり、そこで出る結論はまったく別のものになる、ということです。

・「空気」の支配は議論を拒否するのです。(中略)議論を放棄して、「空気」の支配に身を任せてはまずいのです。

・山本さんは「水を差す」という言い方で、この「空気」の支配に対抗しようとしました。「水を差す」というのは、場が一つの「空気」で固まり、その方向に進もうとするとき、その支配を打ち破る行為です。

山本さんは、「水を差す」という言い方に有効性を感じながらも、同時に、「しかし、この『水』とはいわば『現実』であり、我々が生きている『通常性』であり、この通常性がまた『空気』醸成のもとであることを忘れていたわけである」と苦渋に満ちて書きます。

「世間」が壊れ「空気」が流行る時代

・「世間」がここ何十年間で緩やかに壊れてきた理由は、都市化と経済的・精神的グローバル化です。

ほとんどの地域共同体は、「世間」としての機能を失いつつあります。その傾向は都会から始まったのですが、各地へゆっくりと、しかし確実に広がっています。では地域共同体は、完全に崩壊するのでしょうか。町内会も自治会も、それでは、街は荒れてしまう、人情が廃れてしまう、危険な場所になる、と嘆きます。地域共同体という「世間」をもう一度作ろうとするから無理なんだと僕は思っています。「社会」として、つまり地域共同体ではなく、地域社会として組成させればいいのじゃないかと思っている。

地域共同体という「世間」を代表するものが壊れ始めても、「世間」がとりあえず安泰だったのは、もう一つの「世間」である会社が揺るぎなかったからです。

一神教の神はぜったいです。神は、自らが神に祈る限り、無条件にその人を愛します。そこには、格差はありません。(中略)アメリカでは宗教がセーフティーネットです。精神的にも経済的にも強いセーフティーネットです。

日本では、「世間」が強力なセーフティーネットでした。(中略)伝統的な「世間」は崩壊し、不安はどんどん増大するのです。不安に負けないように自分を支えたい。支えなければ、生きていけない。けれど「世間」は支えてくれない。その結果が、ここ数年の「空気」という言葉の乱発ではないかと僕は思っているのです。

・アメリカ人は「神に強烈に支えられた個人主義者」でしかないのです。それは、強い個人でもなんでもありません。(中略)「自己責任」なんて言葉を、何も支えるものがない日本で、政治的意図だけで簡単に言い出す政治家や、それに乗ったマスコミに対して、本気なんだろうかと僕は思ってしまいました。

・不安はますます増大します。都市化と経済的・精神的グローバル化と格差社会で、伝統的な「世間」は崩壊し、不安はどんどん増大するのです。不安に負けないように自分を支えたい。支えなければ、生きていけない。けれど「世間」は支えてくれない。その結果が、ここ数年の「空気」という言葉の乱発ではないかと僕は思っているのです。

・人は不安になったとき、原理原則に戻るのです。不安になればなるほどです。自分が住んでいる世界がどこに向かっているか分からなくなったときに、人は、自分が安心できる、理解しやすい、懐かしい世界を求めます。

あなたを支えるもの

・世間は一方で壊れながら、一方で蘇りつつあります。「世間」の復活を後押ししたものが、マスコミとインターネットという存在でした。

・インターネットが伝える言葉は、かつての伝統的な「世間」の人たちのひそひそ話よりもはるかに強力な力を持ちます。

・日本人が「共同体(世間)」と「共同体の匂い(空気)」に怯えず、ほんの少し強い「個人」になることは、じつは、楽に生きる手助けになるだろうと僕は思っています。

・もし、「個人」が強くなれる理由があるとすれば、その方が快適だからです。じっと「空気」に押しつぶされて、我慢するより、「王様は裸だ」と叫ぶ方が快適だからそうするのです。個人の自立とか社会変革とかのスローガンではなく、生きるのが楽になるからするのです。

「社会」と出会う方法

・伝統的な「世間」「空気」「家族」そして「個人」どの支えを選んでも、苦労と喜びがあります。では「社会」はどうでしょう。

「世間」に向かって発信し続けた秋葉原通り魔事件の被告

・インターネットの一番の肯定面は、自分で「共同体」を選ぶきっかけを見つけられるということです。「世間」の特徴は「所与性」だと書きました。自分で選ぶのではなく、与えられるものです。けれどインターネットは、自分の所属する共同体を選び取る可能性を。私たちに与えたのです。

・日本語は大胆な省略表現を使える事によって、「空気を共有している」空気を作りやすい言語です。

「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)の著者の冷泉さん、今の日本は、「場の空気」が濃密に重く淀んでしまっていて、それを弾き飛ばすために、「です、ます」の丁寧語を使う事を提案するのです。(中略)日本語を一度、相手の立場と言う「世間」から自由にし、ニュートラルに使用という提案です。

・「世間」からゆるやかに「社会」にはみだしていくこと。僕はこの方法が、一番、苦しみと喜びの天秤に比べたときに、楽しい方向に天秤が傾くのではないかと思っています。

・前向きに「世間」と「社会」を往復するのです。(中略)それは「複数の『共同体』にゆるやかに所属すること」ということです。

たった一つの「共同体」に対して頼っているだけだったり、支えを求めているだけでしたら、いくらゆるやかに支えてもらおうと思っても、「共同体」の方からあなたを放り出すでしょう。複数の「共同体」というゆるやかな関係を作りながら、あなたもまた、その「共同体」の人たちを支えるという気持ちを持つのです。

 

 

勉強になった部分が多すぎて、どこをどうまとめていけばいいかが正直よくわからない一冊です。

本当に何を考えるためにも参考にり、ソーシャルインフルエンスや寄付文化、コミュニティデザインなど自分は何を考えるときにも、この「空気」と「世間」に書いてある事を思い出して、考えています。

必ずためになると自信を持って言える本なので、まだ持っていないし読んだ事がないという方は是非読んでみて下さい!!

多少違いますが、関連記事としてこちらも。

「助けて」と言える国へ | Kobayashi Blog

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