ネットはどう生活に影響を与えているのか? 10年経って蘇った予言書「インターネット的」

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ほぼ日刊イトイ新聞糸井重里さんインターネット的 (PHP文庫)を読みました。

どうやら、十年以上経って話題になっているらしい。じぶんで言うのもおかしいですが、読んだ方によれば「いまの時代が予見されている」そうです。「ぜんぶ、ここに書いてるじゃないか」なんていう声もいただきました。――糸井重里。本書は、発刊から十年を経て、「まるで、予言の書!」と再評価の声が高まっている名著に、書き下ろしの「続・インターネット的」を加筆し、文庫化したものである。もとは、『ほぼ日刊イトイ新聞』を始めた当時の著者が、インターネット登場後の世界について考察したものだが、読む者は、ここ十年間に起きた変化の本質を、十年前のこの本によって知ることになるだろう。また本書で綴られる言葉は、パソコンすらいらない、「消費者」なんていない、自分を他人にするゲーム、寝返り理論、消費のクリエイティブ、妥協の素晴らしさ……など、普遍的価値を持つ。糸井重里の予言的、そして普遍的なメッセージが詰まった一冊である。

 

これはAmazonの内容紹介の部分ですが、この本はもともと2001年に出版されたもので、最近この本の評価がまた高まってきていたので、文庫化されたという経緯を持つ非常に面白い本です。

 

インターネット的 「リンク・フラット・シェア」する生き方・考え方

・インターネットと「インターネット的」のちがいというのは、字面では単に“的”があるかないかのことなんですが、これは重要なポイントになってきます。「インターネット的」と言った場合は、インターネット自体がもたらす社会の関係の変化、人間関係の変化みたいなものの全体を思い浮かべてみてほしい。

3つ鍵ーその一、リンク

・複雑な情報のカタマリどうしが互いにつながっていることが、インターネットの仕組みそのもの。いままでのつながり方というのは、有用な情報どうしが互いに機能でつながっていることが多かったわけです。“これをするために、こういう情報はないか”と要請があったときに、“はい、その情報なら、ここにありますッ”と差し出すのが、いままでの「ジョイント」的なつながり。いわば、問いと答えのセットのようなつながりですね。辞書をひくのは、こういう感じだったと思います。しかし、「リンク」というつながり方はそういうものではありません。もともと、「問い」のほうにも、「答え」のほうにも、たくさんの付属する情報があるのですが、それが有機的につながりあうというのが魅力的です。周辺情報だとか、リンクの先のリンクにまで延々と深くつながってゆくのです。これこそが、インターネット的の一番の鍵になるわけです。

・一見、不要な情報からのつながりに可能性を見出せるということが、「リンク」という考え方にはあるのです。これは、インターネットのとても得意なことではあります。

3つ鍵ーその二、シェア

・「シェア」というよろこびの感覚が、インターネット的なのです。

・「市場がイニシアティブを持つ」という背景を考えたとき、企業にとっての「シェア」の考え方というものがきわめて重要になってきます。企業が自分の利益を考えるのは当然のことなのですが、その利益を何らかのかたちで社会に「シェア」していくという考え方が、もっと大事になると思うのです。

・シェアとリンクとが、絡み合っていくわけです。何とも快適な連鎖構造ができていきます。

・実は、情報はたくさん出した人のところにドッと集まってくるんだ、という法則があるのです。もらってばかりいる人は、いつまでたっても「少しもらう」ことを続けることになります。おすそわけをたくさんしている人や企業には、「これも、あなたが配ってください」という新しい情報が集まる交差点のようになっていきます。

3つ鍵ーその三、フラット

・フラットというのは、それぞれが無名性で情報をやりとりするということと考えられます。情報のやりとり自体に意味があるので、そこでは、それぞれのポジション、年齢、性別、価値などの意味が失われているわけです。失われるのはイヤだ、という人にとっては、ありがたくないことでしょうね。せっかく築いてきた地位が、意味をなさないような場が、インターネットのつくり出す「フラット」な世界なのですからね。

・インターネットのやりとりに、本名でなくハンドルネームというものを使い合っているというのは、悪いことばかりじゃなく、みんなを平らにするための、ある種の発明だったとも言えます。ネットというのは、ある種の仮面舞踏会でもあったわけです。

・“競争しよう、分けあおう”というのは、ぼくの考えるインターネットのルールでもあります。価値観も、もちろんフラットになっていくでしょう。いままでの社会での価値体系は、誰にでも納得されるものではなくなっています。さらに、これからは、個人の価値観に合わせて個人のプライオリティ(優先順位)が自由に組み替えられていくでしょう。

・豊かな社会においては、経済も、文化も、いままでのような同じ価値観で「価値の三角形(ヒエラルキー)」をつくっていくことが困難になっていきます。いままでにも、価値が多様化しているとよくいわれていましたが、価値が多様化するというよりは、価値の“順位付けが多様化する”“価値の順位組み替えは個人の自由になっていく”ということでしょうか。

インターネット的世界への手引き

・アイデアやヒントがまだ幼いうちに、他者に向けて何とか出してみる。そしてたくさんの相手が、「未完成だけれどポテンシャルを感じる」と言ってくれたらしめたものです。自分ひとりじゃできないことでも、その受け手の力に手助けされて、素晴らしい現実を生み出せるかもしれないのですから。ぼく自身、インターネットに文章を書くようになって、あきらかに文体も変わりました。何とか早く伝えたいということを大事にして、文章の完成度を犠牲にするようになったのです。

・たくさん出す人、いっぱいサービスする人のところに、いい情報が集まってくるのですから、みんなによろこんでもらうことを、完成形など待たずにひっきりなしに提供していくことが、いい情報を集める方法でもあるのですね。

 

インターネット的でどうなる?

まだまだ足りない「くだらない面白さ」

・もっと間抜けで、もっと豊かで、もっと自由なものが、世の中にはまだまだ潜んでいるはずです。みんながバカなことを言っているんだけれど退屈しないというような、ときどきマジになるんだけれどそれがまた面白いというような、ぼくの一番好きな世界がまだまだ広がりきっていない。そんなふうに感じていました。誤解されたらマズイのですが、まだインターネットは“学習意欲”のある人たちのもので、まだまだ「バカが足りない」と思いました。

・ほんとうのアイデアとか、知恵とか、自由とか、くだらないこととかが、ネットの世界の外側にはもっとたっぷりあるのです、きっと。そういう「くだらなさを含めた人間の遊び感覚」が、人類全体の知的資源として、まだまだネットの世界の外にたっぷり眠っているはずなのです。

・インターネットにつながっていない人たちと、ちょっとだけ先にインターネットにつながったぼくらがどういうふうに重なりあっていくか、ということで、ぼくらは毎日七転八倒しているわけです。

 

工業化社会からインターネット的社会へ

・勢いも人工的に「つくれる」のですから、“勢い”を価値の軸にする時代というのは、大量生産・大量消費にフィットした考え方だと思うのですが、そろそろ寿命がきているようにも思えます。

・「消費者が一定の数だけそろえば商売になる」仕事がうまくいくには、一定の数の消費者と出会うチャンスが必要になります。それをするための最高の道具として、インターネットというものがあります。

・新しい時代には、答えの見えないことが、もっと価値を持つようになるのではないでしょうか。「インターネット的」という切り口で読むと、「人間まるごと」が「勝ちだけ、目標だけ」を求める「脳」に対して反乱を起こしかけているように見えます。あんまりイージーに予言的なことは言えませんが、もっと「魂」に関わることに、人間の意識が向かっていくように思えます。

 

インターネット的思考法

・まず、「消費者という人」はいません、ほんとは。何かモノを買うとき、サービスを受けるときには、消費者という役割をしていますが、それはある特定の場面や時間の中でのポジションです。よく、最近の消費者は賢くなったとか、スレてきているとか言う人がいますが、それは「消費者という人」たちが賢くなったということではありません。バナナを買う場面では消費者をやっている人が、他の場面ではシャツを売っている、というようなことはいまでは当たり前のことです。買う側の人は、また別の場所で売る側の経験をしているのです。現在の日本では六五パーセントもの人が第三次産業と言われていた情報・サービス業にいるわけで、ほとんどの人は、どこかで「サービスをする立場」もやっているのです。それはつまり、みんなが同業者のようなものなのですから、賢かったりスレているように見えたりするのは当たり前のことではないでしょうか。

・ぼくは“商品環境”という言葉をさかんに使います。“商品は環境ごと商品なんだ”という考え方です。商品は、それ自体「単体」で価値を持つことはできない。そういうことを言いたいのです。(中略)商品というのは環境を含んでの商品なのですから、お客さんはその環境をぜんぶ含めて求めているということです。

 

インターネット的表現法

・“書き手”とか“読み手”という「階級」が、なくなってきているのに、読み手は書き手より下だと信じている人たちが、難しいことをいかにも難しそうに語っているのでしょう。このあたりは、生産と消費の関係が変化していることと、とてもよく重なっています。知識の量だとか、教養の幅とか、ある種の業界用語とか、そういうものがどんどん意味を失って消えているわけです。その現象の善し悪しはひとまず措くとしても、その社会構造の中で人にものを伝えていくというのはどういうことなのか。それが問われています。

・インターネットができたことで、「誰でも思ったことを垂れ流せる」という意見は否定的にせよ肯定的にせよ、よく語られてきました。しかし、もっと重要なのは、垂れ流せるとわかったおかげで「思ったり考えたりすることの虚しさがなくなった」ということだと思います。画面の向こう側とこちら側に「人間がいて、つながっている」という実感が、クリエイティブを生み出すこと、送ること、受け取ることの楽しさを思い起こさせてくれたことが、革命的なのだと思っています。

・もうひとつ、大事にしたい原則は、“わからないことは言うな”ということです。わからないんだけれど、言うと偉そうなこと、わからないなりに言ったら正しそうなこと、という発言は、ついやりたくなるわけです。もう、無意識でしたと言い訳したいくらいにスラスラと出てしまう。それは、とてもイケナイことだと思っているのですが、ときどきチェックしないとやらかしてしまいます。

 

インターネットの幻想

・売りたい側にも、買う側にも、「イメージ」を生み出す力がなくなっているのではないでしょうか。ビジネスを考える人々も、消費をするはずの人々も、考えの行き着く先が、いったん「お金」でストップしてしまっている。

・ぼくの「問題発見法」というのは、とても簡単です。ずいぶん昔に考えついて、いまでもこれは変わっていないという、ぼくにしてはめずらしい「大理論」(?)です。“寝返り理論”といいます。  無意識で感じている不自由を見つける、というものです。

・“消費こそ生産なんだ”と、ぼくがやや強めの言い方をするのは、「消費する」「楽しむ」ということが、いままであまりに軽んじられてきたからです。

・これからは、もっと、使ったり楽しんだりするほうの工夫やアイデア、感覚、が大切になってきます。つまり消費のクリエイティビティが、育てられるといいなあと思うのです。

 

消費にクリエイティブを!

・クリエイティブは、生産の側、送り手の側だけで追求していってもしかたのないことなのです。生産は消費がないかぎりできません。むろん消費も生産がなければできないわけで、それの両方がセットになって市場ができているわけですよね。いや、世界ができていると言ってもいいくらいです。情報の送り手と受け手の関係も同じことでしょう。

・ひとつのものを肯定したり賞賛したりするために、他のものを並列的に例にひいて、そちらを否定する」ということが、ぼくが言っている「消費のクリエイティブ」を、育ちにくくしているのではないか。

・いいと思ったものを、他と比べないで誉める練習というのをやってみるというのは、どうでしょう。  けっこう、難しいのですが、自分の肥料になるような気がするのです。

 

エピローグ 「インターネット的」時代のゆくえ

・人々は、作者やチーム、企業の提示する「世界」の住民になりたいと感じるから、共感してくれるのだと思うのです。そういう意味では、あらゆる表現や行動には「世界観」のベースがあるはずです。
幸せって何だっけ何だっけ?
ということについても、ばくぜんとでもいいから、「わたしは、こうだと思います」というものを提示できなければ、受け手の思うままにサービスいたしますという、例の「お客様は神様です」思想になってしまいます。

・すごいなあと思わせる作品には、必ず、作者の幸せ観があるものだと、ぼくは感じています。インターネットの中に、たくさんのサイト(ホームページ)がありますが、企業のページが総じて面白さに欠ける理由は、「企業」というものも持っているはずの「世界観」やら「人間観」「幸せ観」ひいては「商品観」などが表現されてないせいかもしれません。

・インターネットの端末に世界中の人がつながっているというときに、誰でもが、可能性としては「一番いい考え」を提示して、他の全員を説得できるようになったはずです。名も知られぬままに立候補して、無名のままに世界の人々に支持されたり、共感を持って迎えられたりすることだって、ありうるのがインターネット的な社会です。単なる票や売り上げ先として数えられていたひとりひとりの人間が、立候補する人間として、数だけの存在から抜け出られるのだと考えたら、それは、タイヘンだけど悪いことじゃないと思いませんか。  立候補するということは、より自由になることだと、ぼくは思っています。

 

続・インターネット的

・そもそも、「インターネット」ということばを、最近は聞きません。みんなの口にのぼるのは「SNS」とか「フェイスブック」とか「ツイッター」とか、そういった新しいことばばかりです。でも、いろんなことばを取っ替え引っ替え使っているだけで、やっぱりぼくはぜんぶ「インターネット」だと思ってるんです。どの業界でもそうですけど、呼び方を変えて、頭打ちの現状を誤魔化すようなことがあります。Tシャツをカットソーと呼んだり、ズボンをパンツと呼んだりね。でも、言ってることは要するにぜんぶ「服」だったりする。そういう、目先のことに振り回されたりしない、自分のなかの軸のようなものは、つねに意識して保っておいたほうがいいと思います。

インターネット的 (PHP文庫)より)

 

 

変わっているようで、変わっていない

この本から学べる一番のことは、これに尽きるんじゃないかなと思います。

ネット関連の動きはめちゃくちゃ早いと言われていますし、〜マーケティングがその典型だと思いますが、色々新しいものがドンドン出てきています。

けど、その本質的なことってあんまり変わってない。変わってないからこそ、この本は10年以上経っても全く古くないし、今読んでもちゃんと面白いということです。

 

そしてだからこそ、糸井重里さんは最後に、「目先のことに振り回されたりしない、自分のなかの軸のようなものは、つねに意識して保っておいたほうがいいと思います。」と言っているんだと思います。

それが、自分にできているのかまだまだわかりませんが。

 

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