多くの人と繋がり、善い人でいること! 「自分でつくるセーフティネット~生存戦略としてのIT入門」

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佐々木俊尚さんの新著自分でつくるセーフティネット~生存戦略としてのIT入門~を読みました。

ネット、ソーシャル時代の人と人との繋がり方、人間関係のあり方、生存戦略としての生き方を考えることができる一冊です。

 

 

はじめにー猛獣になれないわたしたちが生き残るには

セーフティーネットが危ない

・この時代の会社には「理の世界」と「情の世界」のふたつがあって、そのふたつの世界が行儀良くうらおもての二重底みたいになっていたから、うまく動いていたんじゃないでしょうか。論理的には正しくて反論できなくても、心の中の感情はそれに反発してしまう。そういう時に、上司とか先輩が情けをかけてくれることで、「理には負けたけれど、情で救ってもらった」と安心することができた。そういう「理」と「情」の二重底で、社会はうまく動いていたと思うんですよ。

・いま、日本には「情の世界」がとても乏しくなってきています。会社の終身雇用がだんだん崩壊してきて、若い人が非正規雇用に追いやられて、「情」を維持することができなくなってきています。いっぽうでグローバリゼーションという極めつきの超強烈な「理の世界」が日本に押し寄せてきて、日本企業は防戦一方。中には敗退するところまで出てきました。これがわたしたち日本人のセーフティーネットを、たいへんな状況にしてしまっています。

どんなに過酷でも後戻りできない

・二十一世紀になってから、このセーフティネットが危なくなってきました。あちこちで「会社が傾いた」「リストラされた」なんていう話をよく聞きます。安定するのを望んでるのに、定職に就けてない、結婚もできないという若者もたくさんいます。

・その先にどうするか。いまいちど、「自分のセーフティネットって、どうなってるんだろうか?」と胸に手をあてて考えてみてください。本当にどの安全網も、大丈夫なのか。ほころんだり破れたり、金具から外れたりしてないか。いや、ひょっとしたら万全だと思ってたセーフティネットが、はなから実は存在してなかったなんてことになってないでしょうか。そういうことを考えなきゃいけない時代になってきたってことなんですよね。

 

セーフティーネットは自分でつくる時代ー一生安泰はもう終わり

あのころは会社が好きだった

・さてここで、二十一世紀になって大きく変わった視界をふたつ挙げてみたいと思います。ひとつめは、セーフティネットが見えにくくなったということ。ふたつめは、情報技術の発達で、わたしたちの人生に隠しごとがしにくくなって、何でも見られてしまう「総透明社会」になってきたということ。

・「あの人たちにとっては会社は仕事をする場所というだけじゃなく、大学のサークルの部室みたいなもんなんだよ。せっかくサークルで楽しく学生生活を送ってたのに、卒業で無理矢理部室から追い出されちゃったような気持ちなんじゃないかな」  なるほどねえ。  要するにこのころは、「会社」という枠組みがとても堅かったということですね。

安心感を生み出すムラ意識

・会社とか組合って、「箱」のようなものだったと思うんです。みんながそこにきちんと収まって、外の世界と隔てられていて安心できる収納箱みたいなもの。会社のほうも、安心できる仕組みをたくさんつくって「ほら、うちの箱はこんなに丈夫ですよ」みたいなことを競ってた。

・いまはもうこんな仕組みは維持されていないでしょうが、この時代の大企業は結婚相手も、結婚後の社宅も、何もかもが会社の中で完結するようになっていたのです。遊びですら、社内の野球部とか登山部とかのサークル活動が用意されてましたからね。  仕事がちゃんと安定してやってくるっていう安心感、そういう固定した関係みたいなものが、会社と社員、社員と社員、会社と会社といったさまざまなところに広がっていました。根回し文化なんかもこの産物ですね。公の広いところで全員で話しあうのではなく、先にみんなで共通認識を裏側でつくっておいて、公の場所でのやりとりは儀式みたいなもの。

・(前略)こういうふうに自分たちの属してる「箱」の内と外で本音と建て前を分けるってやり方。これは「ムラ意識」と言われてますが、いつからはじまったんでしょう? 日本古来の伝統なんだ、って言ってる人もいますが、歴史学者の中には「江戸時代ぐらいに始まった」という説をとなえている人もいます。  少なくとも江戸時代のころから明治、大正、昭和まではずっとそういうムラ意識は続いていたみたいですね。でも途中、それが寸断されちゃってる時期もあります。たとえば太平洋戦争の終わった後。

・戦争が一九四五年に終わって、高度成長がはじまって、たくさんの人たちが農村から都会に出てきました。「金の卵」なんて言われて、中学校を卒業すると集団就職列車に乗って東京に向かい、工場とか食堂とかに勤めるようになったんです。それまで住んでいた故郷の村から切りはなされて、みんなとても寂しかった。東京の下宿には、困った時や悩んだ時に拝む仏さんも神棚もありません。何でも知ってて、相談に乗ってくれるじっさまも、包容力のあるばあさまもいない。みんな、不安だったんです。集団就職で工場に勤めはじめたのはいいけど人間関係に悩んで辞めてしまい、そのままキャバレーのボーイやホステスになったりとか、そういう話もたくさんあったようです。「あそこの息子は東京に出て行って身を持ち崩しちゃってねえ」なんて田舎の村で噂になったり。みんな安定してなくて不安だったんですよ。二十一世紀のいまの日本とちょっと似ているところもあるかもしれません。

「会社」がつくった何とも素敵な仕組み

・戦後の一時期、そういうみんなの不安をすくいあげたもののひとつに、いまは巨大な教団になっている宗教組織の創価学会がありました。創価学会は悩める若者たちに心の平安を与えて、そしてもうひとつ大切なことに、田舎の村に置いてきた仏壇のかわりに創価学会オリジナルの仏壇を提供したんです。これで東京に出てきている若者たちも、ご先祖様を拝むことができるようになりました。そうやって組織を大きくしていったんです。

・高度成長で会社はどこも大きくなって、豊かになりました。そのお金でたくさんの社員を雇って、終身雇用と年功序列、つまり「定年までずっと雇ってあげるし、いったん新卒で入社すれば仕事のできが悪くてもちゃんと昇進させてあげるよ」という何とも素敵な仕組みをつくり、それに社宅や社内結婚や社内のサークル活動なんかを整備して、それでみんな会社の同僚と「一生いっしょだぜ」と仲間意識を感じるようになって、不安を感じないですむようになったんですね。こういう仕組みはだいたい一九七〇年代の後半ぐらいにできあがったと言われています。

・この時期の日本社会って、同心円みたいなかたちだったなあとわたしは思っています。  いちばん真ん中に、自分がいます。自分のまわりに妻とか子どもとかの家族。そして妻は社内結婚だし、住んでるのは社宅か、会社の信用組合に借金して建てた一戸建てとかマンションだし、遊びは週末の会社の野球部かゴルフ。だから自分とこの一家は完全に会社に取り囲まれてた。もはや世界には会社と家庭のふたつしかないという、極端なライフスタイルです。

安定しているのに息苦しい

・そしてこれは安定してるかわりに、息苦しくもあった。だからこの時代の日本では、脱出することにみんな憧れた。だから、遠くに行けてしかも自分だけの個室を持てる自家用車にみんな憧れたし、流行歌は『遠くへ行きたい』とか『心の旅』とか『俺たちの旅』とか、どこか遠くに行きたいなあという憧れの旅の歌がとても多かった。

・いまになって振り返れば、帰る場所があったってのはまだ幸せだったのかもしれません。いまの日本人にも、もちろん実家があったり帰省する田舎があったりはするわけですが、かつてのような「自分をやさしく包んでくれる場所」っていうようなニュアンスはもはや失われているような気もします。

・会社という息苦しい社会からの脱出と逃走の時代だったんですね。それぐらい会社っていうのは、強い意味を持ってたんですよ。最強にして唯一のセーフティネットだったと言っていいでしょうね。会社さえ存続してくれれば、ほかのセーフティネットがすべて無くなったって自分は生き延びられる。極端にいうと、それぐらいの気持ちでした。でも愛していただけじゃなくて、そこには愛憎あいなかばするものがありました。

グローバル保守というパラドクス

・グローバルだ、フラットだ、というようなことが言われて、日本でも欧米でもふつうの人たちの仕事が減り、正社員という昔は当たり前の立場だった肩書きが、いまでは「狭き門」になってしまいました。脱走するどころか、もはやそこから脱走する囲いさえ用意されていない。「どこでも好きなところに行きなさい」と言われてしまって、どこに行けばいいのか皆目わからず、途方に暮れてるわけです。その結果が、非正規雇用率が四〇パーセント近いといういまの日本の現実。働いている人の半分近くが、もはや正社員じゃないんです。パートやアルバイトや契約社員なんです。「サラリーマン社会」なんていうことばは、もはや牧歌的な過去の郷愁になってしまいました。

・二十一世紀の学生の就活スーツは、全員がブラックのほとんど同じデザインのものになってしまっています。男子も女子も。正社員の募集人員が少なくなってしまって、企業は「変わったヤツ」をリスクをとってまで採用しなくなり、学生の側もそれに応じてどんどん保守的にふつうを装うようになったんですね。

・でもこれは、若者のせいじゃない。わたしたちは年長者になると、つい「いまどきの若い者は……」論をぶちたくなりますが、その「いまどきの若い者」を生みだしてるのは社会をつくってるわたしたち自身であることを忘れちゃいけない。社会が良くなれば良い若者が出てくるし、社会がおかしくなれば、変な方向に走る若者が増えてくるということなんですよ。わたしたちの社会と関係なしに、若者だけがダメになったり保守的になったりするなんてことは、冷静に考えれば「ない」ですよ。

一体誰が逃げ切れるのか

・いまの若者が正社員で就職できなくて苦労していることを、「若者差別だ」「中高年が勝ち逃げして、若者を酷い目に遭わせてる」って批判する人がけっこういます。労働問題の専門家みたいな人でも、そういう主張をする人は少なくないです。でもこの批判は、半分合ってるけど半分間違ってると思います。  正しく言えば、勝ち逃げしてるのは「正社員のままで定年まで残れた一部の中高年」だけです。

・「中高年と若者」じゃなくて、「正社員になれた人と、正社員になれなかったり正社員の立場を奪われた人たち」という分断の問題だ、ってことなんです。

 

総透明の時代

・フェイスブックのようなSNSは行ったレストランや旅行の自慢をする場所なんかじゃなくて、「人間関係を気軽に維持していくための道具」であると同時に、「自分という人間の信頼を保証してくれる道具」でもあるんです。

「リア充自慢」と思われずに「いいね!」をしてもらう方法

・フェイスブックで大切なのは、食べてるご飯のことでも週末の旅行先でも、ネットの記事でも何でもそうなんですが、「この人は価値のあること書いてるなあ」と思ってもらうことなんですよ。

・ネットを長年やってて「ITジャーナリスト」って肩書きも名乗ってるわたしからのワンポイントアドバイスです。SNSへの投稿でいちばん大切なのは、読んでくれた人が「これは有用な情報だ」と思ってくれるかどうか。

友達が少ない人はどうすればいい?

・たいていの関係って、仕事でつきあいがあるとか近所に住んでるとか、同じ趣味のサークルにいるとか、ちょっとした淡いつきあいからスタートするようなものでしかない。でもそういう淡い関係だって、「お、この人話が合うな」「この人と話せて良かったなあ」「こういう人と知り合いになりたかった」と思うような瞬間がありますよね。わたしはね、そういうのが実は「友情」ってものじゃないかと思うし、それで十分じゃないかと思うんです。

・カッコつける必要もないし、すごく立派なことを書こうなんて気構えなくてもいい。ただ自分の素直な気持ちを、ひっそりと伝えればいいんです。

・ひとつだけ気をつけたいのは、相手のことを見下したりしないこと。「自分の方がよく知ってる」「自分の方が詳しい」と上から目線になって、指導したり助言したりしないこと。別にへりくだる必要はありませんが、同じフラットな目線で、素直に相手に向きあっていればいいんです。

ボタンひとつでささやかな意思疎通

・わたしはフェイスブックの本当の意味は、ふたつあると思っています。ここ、とても大切なポイントです。第一は、人間関係を気軽に維持していくための道具。第二は、自分という人間の信頼を保証してくれる道具。

名前より信頼できるプロフィールとは

・わたしはここ数年ずっとフェイスブックを使ってきて、「これって名刺の代わりになってるよなあ」と感心することが多くなりました。フェイスブックには自分の生年月日とか仕事とか職歴とか、これまでどこに住んできたのかとか、結婚してるか未婚か、などいろいろプロフィールを書き込めるようになってます。でもまあこれは自己申告なので、いくらでもごまかせる。でも毎日のように書き込んでること、たとえば「こんなこと考えてる」「こんなご飯を食べた」「週末に家族と旅行に行った」は、一回や二回なら嘘を書けるかもしれないけれど、フェイスブックを継続的に何年も使い続けていて、すべてを嘘で塗り固めるなんてできません。自分の日常を書いていれば、そこに自分の人間性とか性格とかがどうしても表れちゃう。

・しばらく前に、有名なインターネット企業サイバーエージェントの藤田晋社長が、自分のブログに「ネットはごまかしのきかない丸裸メディアなんですよ」って書かれていたことがあって、わたしは「そうそう、その通り!」と膝を打っちゃうぐらい同意しました。

肩書きより人間力

・フェイスブックを長く使えば使うほど、毎日の日記やコメントやさまざまな写真、友人関係がたくさん溜まってくる。そういう過去の蓄積が、その人の本当の人間性を物語る雄弁な証拠になってくれるってことなんですよ。

・要するに、肩書きじゃなくて、中身そのもので勝負する時代になってきているんです。総合的な人間力で勝負する時代になってきているんです。これはたいへんな時代です。でも、みんなが肩書きの飾りを求めるんじゃなくて、自分の人間力を磨くように努力するようになれば、とても良い社会になっていく可能性があるんじゃないかとわたしは思っていますよ。

個人情報は「足切り」に使われるだけ

・アメリカで最近、「eスコア(イースコア)」っていう数字が使われているという話があるんです。これは何かと言うと、ひとりの消費者がどのぐらいものを買う力があるのかということを調べて、それを本人の知らないうちにこっそり数値にしちゃおうというもの。

・eスコアの低い人、すなわちお金のあんまりない人にとっては、とんでもなく酷な世界ですよ。まわりの人には高級品や美味しそうなレストランがお勧めされてるのに、自分のところにはまったくお勧めされないか、せいぜいコンビニで売ってるお菓子ぐらいしか広告が入ってこない。「どうせ買わないんだから、オレはいいや」とあっさりあきらめられればいいですけど、ただでさえ生活苦しいのに、広告にまで差別されちゃって……というのはちょい悲しくないですか。

監視社会より残酷な「黙殺社会」

・個人情報がたくさん集められると、ビッグブラザーに監視される社会になるんじゃなくて、企業から無視され、黙殺される社会になるんです。監視社会だ、ビッグブラザーだ、と怒ってる人たちは「自分の個人情報が勝手に利用されて、要りもしない広告が送りつけられてくる」とか言いたがるんですが、いやいやいや、ヘタすると「あなたのことは興味ないですから、今後いっさい情報も送りませんよ」と企業に言われるだけかもしれない、ってことです。考えてみると、こっちのほうがずっと冷酷かもしれません。

総透明社会は「交換しあう」ことで成り立っている

・おせっかいなおばさんや偉い先生がいた「世間」、そして安定した人生を約束してくれる会社という「箱」もなくなってくると、どうやって他の人たちや、この社会とつながっていけばいいのかみんなわからなくなります。そういう失われてきている「世間」や「箱」のようなヒューマン・システムの代替物として、フェイスブックの意味があるということなんですよ。

・箱の中では先輩や偉い人が勝手に教えてくれていたのが、総透明社会では教えてもらうためには交換条件が必要になってきているということです。誰も見てくれない黙殺社会の不安があるから、逆に自分がいまここにいることをネットの中でアピールして、「ぼくを見て」「わたしはここにいるよ!」って叫んでる。それが実のところ、いまのネット社会の本質なんじゃないかとわたしは思っています。自分たちの情報を提供することで、社会につながってる安心感をどこかで得られている。だからこれは「監視社会」じゃなくて、「監視されたい社会」なんじゃないでしょうかね。やっぱりみんな、心の底で見られることを望んでいるんですよ。

ネット探偵から逃れられるか

・「ネット探偵」みたいなのはこれからもなくならないでしょうね。自分のいろんな情報をネットに提供してるんだから、何かあったら過去のことが洗いざらいわかっちゃう。かと言ってネットをやめて生きるわけにはいかない。だったら絶対にヘマを起こさないように生きて、他人から詮索されないような人生を歩めばいい? いやいや、そんな完璧な人生はいくらなんでも無理です。それに「ヘマしないようにしよう」なんて後ろ向きの選択してたら楽しくないですよ。失敗を恐れずに前向きに生きていくから、人生は面白いんです。

安全なプライバシーはもはやどこにもない

・プライバシーってみなさん言うけれども、そんなのこの半世紀ぐらいのあいだにようやく認知されただけの権利じゃん、とわたしは思うのです。プライバシーのないちょっと昔にもどったって、たいして困ったことは起きないんじゃないかと思います。

泥棒のリスクか美味しい店情報か

・ネットはプライバシーを奪うけれども、同時に情報ももたらしてくれる。ものごとには常に表と裏、いい面と悪い面があるという典型的なかたちですね。

悪意に満ちた発言は、自分の評価を下げる

・その人の悪口をこっそり言ったつもりでも、ふつうに本人にあからさまに伝わっちゃうようなことが起きてるんですよ。これこそが、すべてが丸見えになる総透明社会。悪意も嘲笑も、全部丸見えの透明になっちゃうんですね。

・悪意を吐き出すと、言われる人もたいへんだけど、言ったほうもそれなりの責任を負わなければならなくなるってことなんです。誰も神様のような場所から上から目線でものを言うことなんてできないんですよ。何かを言った瞬間に、その言った内容で人は評価されるようになるからです。言った瞬間に、自分も評価の対象にくみこまれてしまう。それが総透明社会の本当に恐ろしいところなんですよ。誰もこの輪から逃れられないってこと。

 

ゆるりつながりの時代ー強すぎる「きずな」は「同僚圧力」を生み出す

・震災のあと、「きずな」ってことばがよく言われてました。でもこの「きずな」って見方を変えれば、実は「同調圧力」と同じこと。明るい面を見るか、暗い面を見るか、という違いでしかないんです。きずなで結ばれた強いコミュニティは魅力的だけど、自分がそこからはじき出された時に、どうなるか。  そして転職とか独立する時に、新しいさまざまな情報をもたらしてくれるのは、「きずな」で結ばれた強いつながりの人たちからじゃなく、それほど親しくない知人の弱いつながりからだってことは、だいぶ昔からアメリカの偉い学者の研究で明らかになっているんです。だったらこれからのわたしたちは「きずな」にこだわらずに、弱いつながりを大切にしていくほうが、安全なセーフティネットへの再生につながっていくんです。

きずなも同調圧力も「強いつながり」をもたらす

・ワンピースのような強いきずなや友情は、もちろんたいせつです。でもね、水を差すようですが、こういう強いきずなは、時としていじめやブラック企業のようなものも生み出しちゃうことがあるんですよ。とても残念なことにね……。

・「みんなと仲良くしよう」っていうような考え方は、円の中心へ、中心へ、とみんなの心の矢印が向いている状態。これを悪い呼び方で言えば、「同調圧力」っていいます。同じようにしなければならないっていう空気の圧力があるということ。この同調圧力って、日本社会にはつねについて回る病気のようなものです。

強いきずなからはじき飛ばされた時どうする

・きずなで結ばれた強いコミュニティは魅力的だけど、自分がそこからはじき飛ばされた時に、どうなるかも予想しておかなきゃいけないってことなんですよ。

・きずなに頼るってことには、そういうリスクが実は潜んでいるってことですよね。きずなが反転して同調圧力になり、いじめに遭っちゃうこともあるし、たったひとつのきずなに頼っていたら、そのきずなが何かの拍子で壊れてしまった時に、頼るものが何もなくなっちゃう。

・ブラックな定められた人間関係から自由になれば、わたしたちはいちいち「きずな」とか言わないでもすむようになるし、そのほうが実は見せかけのきずなじゃない、本当のきずなをつくることができるようになるんじゃないかな。わたしはそう思ってるんです。

正社員切符を手に入れれば、食いっぱぐれなかった時代

・いままでの人間関係は、電車みたいなものでした。終身雇用の大きな会社は、まあ指定席の普通車みたいなものでしょうか。座席を予約して(入社試験を受けて)、無事席がとれたら乗車して(入社式を迎えて正式採用されて)、後は自分の席に座っていれば目的地まではだいたい運んで行ってくれる(年功序列の終身雇用)。出世階段に乗ったり乗り遅れたり、落ちこぼれたりとかいろいろありますが、まあそんなのも人生の終わりに振り返ってみれば、電車の中の小さな嵐みたいなものです。食いっぱぐれることはなかった。

・いまの日本社会というのは、電車の指定券が、過当競争でものすごく取りにくくなっているようなものだと思います。つまりは正社員になるというのが高いハードルになってるってこと。キップは買えても指定席がとれないから、自由席で席をとれるか、そもそも満員電車に乗り込めるかどうかは、その時しだいという不安定さ。

仕事を失った時、役に立つ情報はどこから?

・ウィークタイズの「ウィーク」は「弱い」、「タイズ」は、ネクタイのタイと同じ意味。首を巻いてるものがネクタイで、タイは「結びつき」「つながり」というような意味です。だからウィークタイズは「弱いつながり」。これの反対語は、強いつながりの「ストロングタイズ」。 日本語で行きましょう。強いつながりというのは、家族とか親せきとか、正社員で入った会社の仲間たち。さっきのたとえ話で言えば、一緒に電車に乗った乗客たち。『ONE PIECE』の海賊ルフィたちみたいに、きずなでつながった仲間たちです。  弱いつながりというのは、もっとゆるやかな人間関係。ネットで出会った人とか、何かのパーティーで名刺交換をしただけの人とか、勉強会などでときどき顔を合わせる人、いまは年賀状交換してるだけの高校の同級生。たとえ話で言うと、クルマを走らせてる時に路上で偶然出会っただけの関係。

・新しい仕事についての情報は、弱いつながりを伝って流れてくるほうが多い。強いつながりからは、あまりそういう情報は流れてこない。

人は「人に教えてあげたい」生き物

・知らない他人であっても、人って案外に好意を与えてあげたいと思ってる生き物なんですよ。それは日本人だろうがアメリカ人だろうが、中国人だろうが変わらないと思います。

・弱いつながりであっても、情報を人に教えてあげたいと思う人はたくさんいるんじゃないかと思います。  そしてもうひとつ大事なことに、強いつながりだと、情報はその関係の中でぐるぐる回るだけで、新鮮な情報って意外と少ない。実際、社内の人と飲みに行っても人事情報とか仕事の具体的な話とか、毎回おなじようなこと言いあってるだけで、「新鮮味がないなあ」と思うことは多いですよね。

ゆる〜くつながる新しい「情の世界」

・これは前にニューヨークタイムズに出てた話なんですが、夫婦とかの男女カップルの関係も、弱いつながりのほうがうまくいき長続きするらしいです。どういうことかっていうと、フェイスブックで調べてみると、カップルの共通の友人が多いと、別れちゃう確率が大きくなるんだとか。二か月以内に破局する確率は、共通の友人が少ない場合より五〇パーセントも高いんだそうです。

・広く広く「情け」を社会の多くの人たちと共有していくこと。わたしはこの本の「はじめに」で、「昔の日本社会には『理の世界』と『情の世界』のふたつがあって、そのふたつの世界が行儀よくうらおもての二重底になっていたから社会はうまくまわっていた」と書きました。でもいまは、グローバリゼーションの荒波という「理」ばかりが勝ってしまって、「情」が置き去りになっちゃっていて、これがセーフティネットを危なくする原因になってしまっています。そういう時代に、弱いつながりを大切にして、多くの人とつながっていくというのは、これこそがまさに新しい「情の世界」なんじゃないかとわたしは思うんですよ。それこそが新しいセーフティネットじゃないかと思うんですよ。会社のような「箱」の中におさめられている「情の世界」じゃなくて、社会のすみずみに裏側で網の目のようにつながっている新たなかたちの「情の世界」。

 

見知らぬ人を信頼する時代ーだからフェイスブックがある

・きずなでつながった仲間だけじゃなく、弱いつながりもたくさん持っていたほうがいい。それがこれからの生存戦略なんだ、ってことを書いてきました。

日本が安全と言われる本当の理由

・昭和のころから「日本人論」とかの本を読むと、日本は人の和を重んじる社会で、みんなが信頼しあっているから治安も良く、夜道を歩いていても安全だとか書かれていました。それにくらべるとアメリカなんかは治安が悪く、人が信用しあっていないから暴動が起きたりして、たがいにあまり信頼していない個人社会だ、なんてね。ところが、この「日本は人の和を重んじる社会」ってのはウソッパチだ、ってのをある学者さんが解き明かしてしまいました。山岸俊男さんというたいへん有名な社会心理学の先生で、一九九〇年代のことです。山岸さんの『信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム』っていう本には、冒頭にこんなことがバーンと書いてあります。「本書はひとつの中心的なメッセージをめぐって書かれている。集団主義社会は安心を生み出すが、信頼を破壊するというメッセージである」なんとも衝撃的ですよ、これは。集団主義社会ってのは、日本のムラ社会のことです。ムラ社会は安心だけど、信頼がないのだってばしっと断言されてるんですよ。

・こういう村は、よそ者に対してはまったく心を許さない。だって村の中ではカギをかけないぐらい仲が良いけど、村の外の人に対してはそこまで信じられないですよね。村の中のきずなが強すぎるから、逆に村の外に対しては警戒心が強くなっちゃう。

なぜ日本人は「旅の恥はかき捨て」ができるのか

・日本人が和を重んじているように見えるのは、決してきずなが強くてたがいを信頼しているからではなくて、相互監視の仕組みがあるからだと。だから相互監視がないところに行くと日本人は「旅の恥はかき捨て」みたいに、ルールから外れた行動を平気でとれるようになるんだと言うのですよ。いやあ、そこまで言われると身も蓋もないというか、日本人としてはちょっとつらいものがありますが。

みんなでちょっとずつ、が新しい情の世界

・もうネットは異世界じゃなくて、わたしらの生活するこの社会と交わって、人間関係とか生活とかがなめらかにまわっていくためのインフラみたいなものになってきてるってことなんですよ。

・いまはインターネットがある。フェイスブックとかを使って、いろんな人とつながることができる。新しい仕事や転職、独立の情報を入手したり、誰かに手伝ってもらうことができる。

・薄い弱いつながりの人でも、自分の生活や仕事に影響のない範囲だったら、手を差し伸べてあげるんじゃないでしょうか。

・弱いつながりをネットの力も借りてつくっていって、ちゃんとメンテナンスしていく。それがね、これからのリストラ社会を生き延びるために必要な知恵であり技術である、ということ。何度も言いますが、これこそが新しい「情の世界」であり、新しいセーフティネットになっていくということなんですよ。

 

「善い人」が生き残る時代ー嘘がつけないネットでは、善い人も悪い人も丸見え

・見知らぬ人とも信頼しあえるし、将来に役立つ弱いつながりもつくれる。昭和の昔は、「善い人」ってのは、単なるお人好しで損する人だっていうようなイメージもありました。でも自分の行動が丸見えになってしまういまの時代には、善い人のほうが最後には必ず人生で得をするようになってきた。これはすごい変化ですよね。他人に寛容になり、他人に与える、そういう善い人を目指すことが、いまや道徳でも宗教でもなく、わたしたちの生存戦略になっているんです。

「善い人」であることが、最強の生存戦略

・「危険な香りの悪いやつ」がカッコよくてもてるってのは、やっぱりあの古き昭和の時代に特有の傾向だったんじゃないかなあと思うんですよ。前にも書きましたが、あのころはみんな会社とか業界とか農村とか、そういう「箱」みたいなのに押し込まれて暮らしてて、けっこう息苦しかった。まあいま振り返ればその息苦しい箱が、わたしらの生活を安定させてくれてたんだから文句なんか言うべきじゃなかったのかもしれませんが、でも「この箱から抜け出して、自由になりたいなあ」とみんな思ってたんですよ。

会社のために黙々と働いても、報われない時代

・わざわざ「箱」の外の世界の人たちに善意を提供する必要もあまりなかった、とも言えると思うんですよね。だって「見てくれる人は見てる」っていうのは、農村とか会社とか、強いつながりの中だからこそ言えるわけで、外に一歩出ちゃうと、どんなに善行を積んでも、誰も見てくれていない。気づかれない。そもそも自分のことなんか誰も知らない。そういう内と外のはっきりした区分けがあったと思うんです。  だからどこの誰かわからないような見知らぬ他人のために役立つよりは、同じ村や会社の仲間のために役立つほうが、生きてくための戦略としてはずっと正しかった。

・これまで何度も書いてきたように、会社とか村みたいな「箱」はいま頼りにならなくなってきちゃってる。黙々と仕事をしているだけだと、誰にも認められないままリストラされちゃうかもしれないし、会社が潰れちゃうかもしれないし、そもそも派遣社員とか契約社員じゃ黙々と働いてもその会社にずっといられるわけじゃないし……。なんとも過酷な時代になったもんです。  狭くて強いつながりよりも、広くて弱いつながりを保つほうが生存戦略として有効になってきている中では、「会社のために黙々と仕事をする」よりも、「広い社会のために善いことをする」というほうが正しい生存戦略である、ということです。

わたしたちは、実は過酷で残酷

・わたしら日本人は見知らぬ他人に対してはとても残酷だってことなんですよ。二十世紀までは、みんな「箱」の中におさまっていて、「箱」の中では優しくいたわりあっていたから、「箱」の外の他者に対してはこれほど苛烈で残酷だなんて、あんまり気づいていなかっただけなんじゃないかと思います。  わたしたち日本人は、実はけっこう苛烈で残酷である。それをまず認めようじゃないですか。それを知るところに、スタート地点はあるんじゃないでしょうか。

寛容であること、そして与えられる人になること

・生存戦略として正しいのは、見知らぬ他人に対しても寛容になること。もっと広く言えば、「善い人」になることです。

・消極的な善い人というのは、他人のやることを認めてあげる人。さまざまな人がいて、社会は多様なんだということを受け入れられる人。他人の世界観や考えていること、やっていることが自分と違っているからといって攻撃しない人。他人の失敗や失言を認め、他人を責めない人。上から目線で、見下ろさない人。

・積極的な善い人というのは、与える人。さまざまなものや自分の知識を、広くシェアできる人。大雪に閉じ込められた高速道路で、自社のトラックに積んでたパンを人々に分け与えた山崎製パンのドライバーのような人。

・アダム・グラントという先生は、「いまは与える人のほうが得をする時代だ」っておっしゃってます。グラント先生は人間をギバー(人に惜しみなく与える人)と、テイカー(まっさきに自分の利益を優先する人)、それにマッチャー(損得のバランスをつねに考える人)という三つに分けて、いままではテイカーがうまくいくことが多かったけど、ネットの時代にはギバーの良い評判が広まりやすくなり、逆にテイカーは「あの人は人から奪う人だ」という悪評判が広まるようになっていき、ギバーのほうが成功しやすくなってるってことを、示されています。まさに、これ! ですね。

 

生き方そのものが戦略になる時代ー善悪は宗教や道徳を超える

今日の勝者は、明日の敗者

・「世の中には悪人もいるし、善人もいる」そういうふうに言う人は多いですよね。でも悪い人や善い人がいるんじゃなくて、ひとりの人間が善い人になる時もあれば、悪い人になることもあるんだと思います。完全な悪人とか、完全な善人なんてほとんどいない。わたしらのほとんどは、その間のグレーのところにいるんです。中には少し悪に寄った人もいれば、善に寄った人もいるでしょうけど。

・そもそも、絶対安心とか絶対大丈夫とか、そういう「絶対」も、もはやあり得ないですよね。

人生はいつでも「入れ替え可能」

・いまの日本って、社会がわりに安定していたバブルのころよりも、いっそ戦後の混乱期とかそのぐらいの時期のほうが似てる部分が多いんじゃないかと思いますよ。古い価値観がどんどん壊れていって、格差が広がって、将来に不安を感じてる人がいっぱいいる。戦後の混乱期ってそういう時期でした。

・戦争が終わった時、いろんな人生や社会階層がまとめてかき回されて、みんな自分の居場所を失いました。金持ちから貧乏人に落ちた人、華族の身分を失った人、空襲ですべてを失った人、逆に成り上がった人、いろんな人がいた。そしてみんな、自分がどんな人生にも入れ替わり可能だということを、ひしひしと実感していたんですね。こういう終戦の時の「入れ替わり可能」な感覚が、二十一世紀のいま再び戻ってこようとしてるんじゃないか。わたしはそんなふうに最近考えるようになりました。つねにわたしたちは入れ替え可能である、と。絶対的な悪とか絶対的な善とか、絶対的な安心とかもう絶対にダメとか、そういう白黒つけられる場所じゃなく、わたしたちはみんな入れ替え可能な中途半端なところにいるんだ、と。

善人と悪人のほんのわずかな違い

・一本の直線を描いて、そこに順番に「偽善者(自称善人)」「悪人」「偽悪者」が並んでいる。偽善者にもならず、偽悪者にもならず、まんなかの中途半端な位置にいる悪人になるということ。これこそが親鸞がひらいた浄土真宗という仏教の教えの本質なんです。いまの時代に必要なのは、人間関係に対するこういうとらえ方じゃないかと思うんですよね。つまり自分が決してピュアな善人ではないということを知るところからはじめて、自分が善と悪の間にある中途半端なところに、宙ぶらりんにぶらさがってることを認めましょう、っていうこと。

・他人を非難し、攻撃する人は、しょせんは偽善者でしかありません。「わたしはこれだけ我慢している」「わたしはこれだけ一生懸命やっている」「わたしはこれだけ正しいことをしている」、「だからわたしは善なのだ」という思い込みは偽善でしかありません。

「生き方」は宗教や倫理を超えた、生存戦略

・いまの時代、自分が中途半端な立ち位置であることを自覚し、善人にもなれないし偽悪者でもないと自覚し、善い人を目指して生きていくという立ち位置は、死後の世界の往生でもなく、倫理や道徳でもなく、まさに必要な生存戦略だと思うんですよね。  自分が中途半端な立ち位置であることを自覚し、善人にもなれないし偽悪者でもないと自覚し、そして他人に寛容になることを目指していく。見知らぬ他人をそうやってまず信頼し、そこから多くの人との弱いつながりをつくっていくこと。これが会社という共同体の「箱」が薄れつつあるいまの時代にとって、最強かつオンリーワンの戦略であるということです。

・生存戦略として、見知らぬ他人を信頼すること。
・生存戦略としての、多くの人との弱いつながり。
・生存戦略としての、善い人。
・生存戦略としての、自分の中途半端な立ち位置を知るということ。

 

終わりにー新しいつながり、新しいセーフティーネット、新しい日本

弱くても網の目のようにつなげていける「情の世界」

・もっと別の、新しいかたちのつながりをつくり、新しいセーフティネットをつくり、それで新しい日本をつくる。新しい日本社会のかたちをこれからつくりあげて、社会を安定させていかなければなりません。  そうやってわたしたち自身が安定していくことをしなければ、次世代の子どもたちや、まだ生まれていない未来の日本の若者たちに、未来を届けていくことはできません。われわれの安定こそが、安定した社会を次世代に送り込むことのできる希望となるのです。

・網の目のようにつながる「情の世界」。弱いつながりの上につくられる新しいセーフティネット。わたしがこの本で書いてきたようなことは、ひとりでやろうと思っても無理でしょう。でもいろんな人たちが少しずつ少しずつ網の目を増やし、だんだんと弱いつながりをつくり、セーフティネットを再生していけば、いつかはそれが「情の世界」となり、わたしたちの目の前に立ち現れてくるんじゃないでしょうか。  わたしはそう信じています。

自分でつくるセーフティネット~生存戦略としてのIT入門~より)

 

 

この本の中で自分が考えなければならないと思ったことはこの2つです。

ネットにより、人間性などがオープンになっていくこと、そして弱い繋がり、ウィークタイズをネットを、特にFacebookを活用して維持していくと言うことです。

 

自分はこのようにブログを使って、自分の意見を発信しているので、自分の人間性がネット上にオープンになっているのは当然のことです。

またFacebook・Twitterで普通に投稿をしているのを見るだけで、ある程度どのような人かと言うことはわかります。つまりソーシャルメディアを使って、人と繋がること、投稿をすることで、どんどんその人の人間性がわかるようになります。

 

そして、それを今後どのように活用していくかということは、本書の生存戦略を超えた、ビジネス的なところでも大事なことだと思います。

・コンテンツやモノ、サービスのアウトプットそのものだけではなく、出来上がるまでのプロセスであったり、誰が作っているかであったり、あとは、コミュニティ内でのコミュニケーションのためであったり、そのようなことが価値を作っているのです。

猪子寿之の考える「全員主役。」時代のビジネスとコミュニティの関係 | GQ JAPANより)

 

このように、その人が持つ魅力的なストーリーに惹かれたり、そのコミュニティに付加価値があるようなサービスは今後どんどん増えていくと思います。

 

例えば、クラウドファンディングでちゃんと知っているわけじゃないけど、ソーシャルメディアで何となく繋がりがある人が支援の募集をしていたとして、その人のソーシャルメディア上の投稿にあまりいい思いをしていなかったらいいプロジェクトでも支援する可能性はかなり低いです。

しかし、ソーシャルメディア上でいい印象を持っていたら、その人のプロジェクトを応援しようと思うことができます。

このように、ソーシャルメディア上の繋がりを活用するには、その人の人間性がとても重要です。

 

そしてウィークタイズを維持していくために、当然Facebookはとてもいいツールです。

Facebookにより、人のつながりの限界であると言われていたダンバー数を超えることができるようになりました。

 

この両面で起きている変化を逃さないことが、そしてそのためにいい人であると言うことが、これからの生存戦略で本当に重要なことなんだなと思います。

 

 

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ネットは繋がりを強くしていくツール! そこで世界は広がらないし、セレンティビティーは生まれない。 | 新卒でプロブロガーを目指すブログ!
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