メディア業界のポーター、マクルーハンから学ぶ! 「今こそ読みたいマクルーハン」

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小林啓倫さん今こそ読みたいマクルーハン (マイナビ新書)を読みました!

メディアはメッセージである(The medium is the message)――

マーシャル・マクルーハンという人物についてよく知らなくても、この有名なセリフは聞いたことがある人は多いでしょう。

例えば戦略論ならマイケル・ポーター、マーケティングならフィリップ・コトラーを読むといった具合に、メディア論における基本的な理論を提供してくれる人物こそ、本書で取り上げるマーシャル・マクルーハンなのです。

メディアに対する考察は、日々その重要性を増しています。
80年代のニューメディア、90年代のマルチメディア、そして近年のソーシャルメディア……。
私たちの社会は常に新しい「メディア」に直面してきました。

メディア論の大家、マクルーハンは、まだテレビが新しいテクノロジーだった時代に、来るべきネット社会の到来を予言していました。彼はメディアやテクノロジーに対する深い洞察を通じて、人間が何を考え、社会がどのように動いているのかを解説してみせたのです。
彼が駆使した思考のフレームワークは、死後30年たったいまでも決して色あせていません。

マクルーハンはどのようにメディアを捉え、どのような可能性を見出していたのでしょうか。
彼が現在の情報化社会・ソーシャル時代を目にしたとしたら、どのような考察を行うのでしょうか。

マスメディアが衰退し、ソーシャルメディアが台頭する今こそ、マクルーハンがメディアをどのように捉えていたのかを整理し、その考え方を私たちの生活やビジネスのなかでどう役立てることができるのか理解しましょう。

Amazonの商品紹介にこのようにあるように、マクルーハンは非常に有名なメディアの研究者で、メディア関係の本や記事を読んでいるとよく引用されている研究者です。

そのマクルーハンの研究内容・理論をまとめた本です。

 

また、この本はマクルーハンの本の内容を多数引用しているので、孫引きの部分を分かりやすくするために、マクルーハンの書籍から本書が引用している部分は全て太字・斜体で書いています。

 

メディアと社会はどのような関係にあるのかー「メディアはメッセージ」

「メディアはメッセージ」の重要性

・自分の気持ちは、コンテンツで表されるから十分――ではなく、メディアにも配慮するというわけです。つまり僕らは、無意識のうちに「メディアはメッセージ」を実践していることになります。

・メディアが持つメッセージ性というのは、状況やメッセージの受け手によって変化するようです。

マクルーハンの言う「メディア」と「メッセージ」

・マクルーハンは「メディアはメッセージ」という考え方に様々な場面で触れているのですが、著作『メディア論』において整理された解説が行われています。同書の第1部の最初に登場するのが、まさしく「メディアはメッセージである」と題された章。彼はその章を、こんなふうに書き始めています。
われわれの文化は統制の手段としてあらゆるものを分割し区分することに長らく慣らされている。だから、操作上および実用上の事実として「メディアはメッセージである」などと言われるのは、ときにちょっとしたショックになる。このことは、ただ、こう言っているにすぎない。いかなるメディア(すなわち、われわれ自身の拡張したもののこと)の場合でも、それが個人および社会に及ぼす結果というものは、われわれ自身の個々の拡張(つまり、新しい技術のこと)によってわれわれの世界に導入される新しい尺度に起因する、ということだ。

・そもそもマクルーハンの言う「メディア」とは何なのでしょうか。「メディア」「人間の身体の拡張」「技術」の3つをイコールの関係で結ぶというのは、マクルーハンの諸作の中で繰り返し見られる位置づけです。例えば彼は、車輪を「足の拡張」、衣服を「皮膚の拡張」、自動車に至っては「全身の拡張」などと捉えています。つまり彼はメディアをより広い意味、人間がつくり出した技術全般を含む言葉として使っていて、それらは何らかの形で人間の身体を拡張したものであると考えていたわけですね。

・それでは「メッセージ」という言葉は何を示していたのでしょうか。これも『メディア論』の中に、次のような言い換えを行っている個所があります。
なぜなら、いかなるメディア(つまり、技術)の場合でも、その「メッセージ」は、それが人間の世界に導入するスケール、ペース、パターンの変化に他ならないからである。鉄道は移動とか輸送とか車輪とか線路とかを人間の社会に導入したのではない。それ以前の人間の機能のスケールを加速拡大し、その結果まったく新しい種類の都市や新しい種類の労働や余暇を生み出したのである。このことは、鉄道の通ずるようになったのが熱帯地方であれ北方地方であれ、また、鉄道というメディアの荷物(すなわち、内容)と無関係に、生じた。一方、飛行機も輸送の度合いを加速することで、飛行機の使用目的とはまったく無関係に、鉄道型の都市や政治や結合を解体する傾向がある。

・メディアが社会の構造に与える変化、それこそがメディアの「メッセージ」であると。そしてなぜ変化が生まれるのかと言えば、新しいメディアによって、新しい人間のつながりやコミュニケーションスタイル、情報伝達のスピードの変化などが生まれるから、ということになりそうです。

 

マクルーハンの言うメディアとは何かー「車輪は足の延長である」

マクルーハンにとっての「メディア」

・実はマクルーハンはメディアを「テクノロジー(技術)」全般を指す言葉として使っていて、非常に広い意味を持たせているのです。

身体の拡張としてのメディア

今日、人間はかつて自分の身体で行っていた作業のほとんどすべてを拡張する技術を開発した。武器の発達は歯と拳骨からはじまって原子爆弾で終わる。着物と家屋は人間の生理的な体温調節機構の拡張であった。家具は地面にしゃがみこむ動作にかわった。電気器具、双眼鏡、テレビ、電話、書物等々はすべて時空をこえて声を運ぶことで肉体の行為を拡張する道具の例といえる。貨幣は労働を拡張し、備蓄する方法である。われわれが今日利用する交通網は、その昔われわれが脚や背中でやっていたことを効率的に行っている。実際、人間の手になる道具のすべては、かつて人間がわれとわが肉体、もしくは身体の特定の一部を使って行っていたことの拡張として受け取れるのである。

・マクルーハンは『メディア論』の中で、自動車社会にひたりきった米国人のことを、「四つの車輪を持った生き物」などと評しています。そして米国のみならず、いまや世界中の都市が「車輪を持っている人間」を前提として設計されていると言えるでしょう。そうした環境が、さらに人間に「足を車輪へと拡張する」ことを促しているわけです。従って人間という生物は、肉体と道具の2つの部分から構成される、と考えられるわけですね。

・こうしたテレプレゼンスや、ウェアラブルデバイスのような技術が発達すれば、「まったく別の場所で、別の行動をする」ということが誰にでもできるようになります。それはメリットをもたらすだけでなく、ドローンパイロットのPTSDのように、「二重生活」が与える感覚によって様々なデメリットが生まれる危険性もあります。いくら技術的には可能でも、技術とは不可分の存在である、僕らの肉体と感覚の方がそれに追いついていかないわけですね。

どこまで「拡張」できる?

・どうやら人間の脳は、まったく新しいテクノロジーがまったく新しい刺激を与えてきたとしても、それを自らの感覚として処理することが可能なようです。ワーウィックやケーニッヒの実験は、あらゆるテクノロジーが人間の身体を拡張するものになっているという捉え方を、非常にユニークな形で証明したものではないでしょうか。

・マクルーハンはメディアを人間が生み出した技術、テクノロジー全般を指すものであると考えていました。そしてあらゆる技術というものは、人間の身体や神経を拡張したものであり、必然的に人間の感覚を拡張するものであると考えられます。つまりマクルーハンの頭の中では、「メディア=テクノロジー=身体の拡張=感覚の拡張」という等式が成り立っているわけですね。

 

メディアが人間に与える影響とは何か?ー「感覚比率」

マクルーハンが提唱した「感覚比率」

・「メディア(テクノロジー)は人間の身体を拡張し、感覚も拡張する」というのがマクルーハンの基本的なメディア観でした。だとすると、マクルーハン的な考え方で個々のメディアを考える場合には、必然的に「このメディアによって、人間のどの感覚が、どのように拡張されていくのか」という点を追求することになります。ただしマクルーハンの関心は、拡張された「個々の感覚」に注目するだけに留まりませんでした。彼はそこから一歩進んで、「感覚比率」という概念を提唱しています。

・五感をバラバラに考えるのではなく結びついたものと考え、全体像として捉えようとしたわけです。

感覚比率が行動を左右する

・1962年に著されたマクルーハンの代表作の一つ、『グーテンベルクの銀河系』では、次のような表現がなされています。
ある文化圏の内部から、もしくは外部からひとつの技術が導入され、その結果としてわれわれのもつ五感のうち特定の感覚だけがとくに強調され、優位を与えられる場合、五感がそれぞれに務める役割比率に変化が生じるのだが、そのときわれわれの感受性はもとのままではありえないのだ。眼も耳も他の感覚も以前とは違った働き方をしはじめる。

・あるテクノロジーによって感覚が拡張され、結果として感覚比率が乱されると、新しい比率によって新しい「ものの見方」が生まれ、人間の行動が変化するというわけですね。

「視覚的空間」の世界

・これまでの聴覚によるコミュニケーションでは、特定の中心や方向性というものが生まれず、従って物事は同時多発的に認識されていました。ところが文字によるコミュニケーションが主体になると、おのずと「視覚」の重要性が上がり、聴覚的空間から視覚的空間への移行が促されます。そして視覚的空間は聴覚的空間とは異なり、一定の方向性と境界線を持つ世界だとマクルーハンは考えました。

・(前略)これが「視覚的空間」の持つ方向性です。そしてその方向性は論理的な思考を促し、今日よりも明日、明日よりも明後日の方が一歩進んでいるという具合に、段階的な進歩を促していくものであるとマクルーハンは考えました。

・(前略)なぜか、テキストになった瞬間に、得体の知れない違和感を覚えるのではないでしょうか。それはテキストが一方向性・論理性を持っているものなのに、「書き起こしテキスト」においては、無理やり話し言葉=聴覚的な世界の同時多発性・感情性を表現しようとしているからです。

「視覚的」なブログと「聴覚的」なLINE

・同じメディアでも使い方によって、それが刺激する感覚が異なるという場合もあります。

・特に新しいメディアの場合、それまで存在していたメディアを「コンテンツ」とし、中に取り込むとマクルーハンは主張しました。従って新しいメディアほど、過去の表現法を真似たりといった、複合的な使い方ができるわけです。

新しいテクノロジーへの拒否反応

・(前略)などなど、この他にも現在から考えると、的外れとしか思えない批判が繰り返されてきたことが紹介されています。どうやら新しい技術は、それが複雑かどうかは関係なく、単に「新しい」という点が問題なようです。

不安とノスタルジーを越えて

・マクルーハンにとっては人間が生み出すすべての道具がテクノロジーであり、テクノロジーは感覚と深く結びついているものです。従って新しい道具の登場は、感覚比率の混乱をもたらすことになります。しばらくすればそれは落ち着き、新しい感覚比率の下で社会行動が営まれることになるわけですが、とにかく技術の内容云々ではなく、新しい技術は必然的に混乱と不安を招くと考えられるわけですね。こうした不安の反動として引き起こされるのが、過去へのノスタルジーです。不安の裏返しで、過去の感覚比率を相対的に良いものと感じてしまい、新しいテクノロジーの導入が過去のテクノロジーを理想化してしまうわけです。

・新しいテクノロジーが必然的に不安をもたらすからといって、それを迎え入れる準備を怠ってよいということにはなりません。1969年に行われたプレイボーイ誌のインタビューにおいて、マクルーハンはこんなことを言っています。
古い価値観を更新する準備を怠れば怠るほど、新しい技術環境によって、より大きな苦痛がもたらされるでしょう。

 

メディアの「温度」とは何かー「ホットとクール」

「ホット」なメディアと「クール」なメディア

・メディアが人間の感覚を拡張する際に、「高精細/高解像度」で行う、言い換えれば「与えてくる情報量が多い」のがホット。逆に「低精細/低解像度」で行う、つまり「与えてくる情報量が少ない」のがクールである、とマクルーハンは解説しています。

・こうした情報量の違いに加えて、「ホット」と「クール」を分ける特徴がもう一つ存在します。それは「参加度」。クールなメディアでは与えられる情報量が少ないので、それを補うために視聴者の積極的な参加が求められ、逆にホットなメディアでは情報が十分に与えられるため、参加は求められないというのです。

・人間は不完全な情報に接すると、それを完全なものにしたい、つまりそれが何を意味するのか100パーセント理解したいと考えてしまう傾向にあるようです。その結果、クールなメディアに接すると、それが「ホット」になることを願うか、あるいは自ら情報を補完することになるわけですね。

・人間は「クール」なメディアを「ホット」な状態にしたいと願う存在であるということが、マクルーハンの理論から見て取ることができます。 またその意味で、「ホットとクール」における情報量とは「~ギガバイト」のように絶対値で示されるものではなく、「(完璧な情報の)~パーセント」のように比率で示されるものであると理解できるかもしれません。

メディアをホットにする人々

・「ホット」になることが必然的に善であるとか、悪であるとかは言えなそうです。補充された情報によってだまされることもあれば、真実を見出すことができる場合もあります。  逆にクールなメディアであっても、そぎ落とされた情報を頑張って解釈し、そこから真実を見出す読者がいるはずです。要はメディアを介して、情報の発信者と受信者がどのような関係を築き上げるのか次第、ということですね。

人々をホットにするメディア

・クールなメディア、すなわちユーザーが参加することで完成されるメディアは、時にユーザーを文字通りの自動制御装置へと変えてしまうのかもしれません。マクルーハンは電話をクールなメディアの範疇に含めましたが、現代の携帯電話は、依存症のような状態にまで陥る人々を生み出しています。こうした例を考えると、マクルーハンの言葉は単なる比喩表現とは言えないのではないでしょうか。

「クール」なツイッターと「ホット」なトゥギャッター

・断片的な情報をまとめて一つのコンテンツを作る、いわゆる「キュレーション」という行為(そしてそれをサポートするツール)の人気が高まっています。マクルーハンはメディアがホットになることを「加熱(ホッティング・アップ)」と表現していますが、人間はどうやらメディアを加熱するのが大好きなようです。例えばチャットと音声通話だけだったLINEにも、ゲームが足されたり、企業の情報発信用アカウントが登場したりといった動きが出ています。これについては、運営会社が収益源を拡大するため、という側面ももちろんあるでしょう。しかしこのサービス拡充が受け入れられるようであれば、「メディアは加熱する」という命題の正しさを示す新たな事例が加わることになるのではないでしょうか。

ホットなメディアとプライバシー侵害

・「ホットとクール」という概念は、一見すると「あるメディアの情報量が多いか否か」という静的な話をしているかのように感じられます。しかし本章で様々な例を挙げてきたように、実は情報というものをめぐって、メディアと人間の間でどのような力学が働いているのかを表したものです。 あるメディアが加熱しつつあるのか、それとも冷却されつつあるのか。そしてそれを前にした人間が、情報にどのように関与しようとしているのか。そういった動的な状況を把握したり、将来を予測したりする際に使える、ガイドラインのような役割を果たしてくれることでしょう。

 

メディアの機能はどう整理できるのか?ー「自動車は交通渋滞に反転する」

マクルーハンの「テトラッド」

・こうした新旧メディアの交代という現象は、他にも見ることができます。電報の座を奪った電話、ラジオの座を奪ったテレビ、そのテレビの座を奪いつつあるインターネット、などといった具合ですね。別に古いメディアが消えてなくなってしまうわけではありませんが、新しく登場するメディアは、既存のメディアが持つ役割の一部を奪い去る傾向にあるようです。  マクルーハンはこの現象を「衰退」と呼び、「それは何を廃れさせ、何に取って代わるのか?」という質問で考えられると主張しました。新しいメディアの登場が、古いメディアの「衰退」を招くというわけです(ここでも古いものを完全に消し去るという意味ではなく、機能・役割の縮小や、弱体化も意味すると考えてください)。

・人間が持つ欲求やニーズはそれほど大きく変化するものではなく、既に何らかのメディア=テクノロジーがそれを満たすために存在していると言えるでしょう。新しいメディアがその存在を置き換えるのだとしたら、古いやり方よりもどこかしら優れていなければなりません。  その結果、新しいメディアは古いメディアを「衰退」させ、それが担ってきた機能を「強化」するのだ、と考えられます。  そのメカニズムはどうであれ、どうやらすべてのメディアには、強化と衰退という機能がありそうです。そしてマクルーハンはこの考え方を整理し、「テトラッド(Tetrad)」という名前で理論化したのでした。

・実はテトラッドとは、「4つの組」という意味です。であるからには、強化と衰退の他に2つの機能があるはず――それが「回復」と「反転」という、一風変わった概念です。

回復と反転

・回復とは文字通り、それまでは廃れていたり、失われていたりした何かが復活を遂げること。「それはかつて廃れてしまった何を回復するのか?」という問いかけをしてみることで明らかになるとマクルーハンは考えました。

・そしてマクルーハンが提唱した最後の機能が、「反転」です。あるメディアが「極限まで押し進められたとき何を生み出し、何に転じるのか?」を考えることで、そのメディアが持つ「反転」の機能が明らかになるとされています。

・あるテクノロジーが弊害を生み出したり、予想外の副産物を発生させたりするのが「反転」という機能であると考えられます。大教室で行われる集団教育は、均質な「国民」を作り出し、全体として生活水準を底上げするという効果をもたらしました。  その一方で、多様な思想を認めないという全体主義や、同じペースで進めない生徒を排除するという姿勢などを生み出しています。まさにこれは、集団教育の「反転」であると言えるでしょう。

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デジタルメディアは人間をどこに導くのか?ー「地球村」

・ほんの些細な情報が、デジタルメディアを通じて、一瞬のうちに世界をかけめぐる――今となっては当たり前に感じられるこの状況を、マクルーハンは非常に象徴的な言葉で示していました。それが「地球村(グローバル・ビレッジ)」です。人々が地球規模でつながることを暗示しているのですが、しかしなぜ「都市」ではなく「村」なのでしょうか?

マクルーハンの「地球村」

・マクルーハンは「地球村」や、それに類する予測を様々なところで行っているのですが、例えば『メディアはマッサージである』ではこんなふうに解説されています。
現代はすべてのことが同時に起きるまったく新しい世界である。〝時間〟は止まり、〝空間〟は消失した。われわれはいまや、地球という一つの村である世界……同時的なハプニングの世界……に住んでいる。われわれは、ふたたび聴覚的空間に戻った。われわれは、文字テクノロジーによって数世紀にわたってはばまれてきた原始的感情、部族的感情を、ふたたび構成し始めた。
時間と空間の消失。これはデジタルメディアを象徴する性質として、マクルーハン以外にも、そして現代においても、様々なところで指摘されています。情報が瞬時に伝わるために、遠く離れた場所に住む人とも即座にコミュニケーションが取れるわけですね。その結果、まるで村のように狭い空間に一緒にいるのと同じ状況になる――だからマクルーハンは「村」という表現を使ったのでしょうか。

・マクルーハンは、デジタルメディアの世界ではあらゆることが同時に起こるだけでなく、「あらゆることは起こった瞬間にあらゆる人がそれを知り、それゆえそこに参加する」と主張しています。単に情報が瞬時に伝わるだけでなく、あらゆる出来事が同時多発的に起こり、人々がその当事者となる世界。それはまさしく「村」と呼ぶにふさわしいでしょう。

地球村はパラダイスなのか?

・またマクルーハンは、人々が密接に関わり合うようになることが、逆に弊害を生むとも考えていました。例えばあるインタビューの中で、彼はこう指摘しています。
人々の関係が近くなったら、彼らはお互いを好きになるだろうか? どんな状況を見ても、その答えがイエスであるという証拠は存在しない。人々の距離が短くなると、逆に彼らは粗野な態度を取るようになり、お互いに対して我慢がならなくなるのだ。
そして最終的に、「地球村とは人々の間で激しいやり取りが起きる、不快な環境なのである」とまとめているのです。どう頑張っても、理想郷とは言いがたい世界でしょう。

神話の時代

・マクルーハンは、「テレビとは何か」と題された講演の中でこんなことを述べています。
全人類の歴史の中で、二〇世紀の子供ほど一生懸命に働いている子供はいない。なにをしているかといえばデータ処理である。今日、子供たちの環境にあふれている情報の量は驚異的なものである。今日ほど大量の情報を毎日処理しなければならない人間はいまだかつて存在しなかったのである。今日、一人一人の子供がデータ処理を迫られているその量は、いかなる人間の標準からいっても大きすぎるのである。  ではどうするか。子供たちは近道を見つける。子供たちは現実というものを構造的につかむことにおいて神話的となる。データを分類する代わりに、神話をつくるのである。過重負担に対処するには、それが唯一の可能な方法なのである。
ここでは主語が「子供」となっていますが、現代を生きる大人にも同じことが言えるでしょう。大量の情報を前にした人間は、その真偽や妥当性をいちいち検証するのではなく、「神話」というイメージを作ることで情報処理の手抜きをするようになる――例えばボストンでの爆破事件に関連する大量の情報を前にして、それを一つ一つ検証するのではなく、「これは政府による陰謀に違いない」や「アルカイダ系のテロ組織による犯行だろう」などといった結論を無意識のうちに用意して、それに沿う情報だけをピックアップするわけです

・ますます大量の情報が氾濫し、それが瞬時に共有されて人々を結びつける現代の「地球村」においては、事実ではなく頭の中にある「神話」が人々を導くようになりつつあるのかもしれません。

今こそ読みたいマクルーハン (マイナビ新書)より)

 

「私は説明しない。探求するのみだ。」とマクルーハンは言っていたようです。

それを感じさせるけっこう難しい内容でした。自分もちゃんと内容をわかったのか、わかっていないのか実際よくわかりません。

けど、これぞ示唆に富んでいる本と言えるだろうというような面白い本です。マクルーハンの原著は読んだことはないのですが、マクルーハンの本を読むよりはまだわかりやすくなっているんだろうと思います。

 

改めて、印象的だった本書のマクルーハンの理論を簡単にまとめてみたいと思います。

感覚比率

感覚比率の話の中で出てきていることは、視覚的・聴覚的の2つのキーワードです。

そして、「視覚的=一方向性・論理性」「聴覚的=同時多発性・感情性」とまとめらています。

 

ホットとクール

ホットとクールを考える際に重要なことは、この2つです。

「与える情報量の多寡」と「受け手の参加度」

 

テトラッド

「強化」「衰退」「回復」「反転」

 

特にテトラッドは新しい何かを考える際にとても重要な考え方として使えそうです。

このように難しく、わけがわからないような部分もあって、けっこう頭を使う本ですが、とても面白いです。

 

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